あげ足とは、イカの足を揚げた"ゲソ"のことで、ファミレスのゲソは脂っこいばかりで身が全く無いという意味が転じ、見た目だけが立派で内容が全く詰まってスカスカな様をいう。また、脂っこい奴を罵る時に使う。
明日テストで100点を採ろうと今更努力をするよりは、今日返されたテストが50点だった事実を認め、自分の実力はその程度と再認識する。つまり、「明日の為の努力とは、自分の実力が分かっていないと結局無駄になってしまう」という意味。
ヤウジロウの兄説
明日の『百万円クイズハンター』に出てくる柳生博のシラタキヘアーについてあれこれ考察することよりも、今日味わっている五十肩の痛みを和らげる方法を考えた方が生産的である」という話から「健康第一」の意味とします。
痛くもないのに、「痛い所はないか?」とお腹を撫で回してくるセクハラ上司の事を云う。
セクハラしすぎてその手首腱鞘炎になるんじゃねぇの?というOLの怒りと皮肉の意味を持つ。
これは盗みに入った泥棒の手順で、一番始めは押し入り、二番に目に金目になる物を物色、三番目は金目になりそうな物が無かったら、男の子をさらって行けという意味。
物事には順序があり、また最終手段には卑怯と呼ばれても仕方のない方法を一つでも用意しておくべきという意味。または物事はそれなりの保険を賭けておくべきという意味も持つ。
真に上手な嘘とは本質の部分だけを隠し、それ以外は真実を話す事である。そうする事で何処までが真実で何処からが嘘なのか分からなくなり、嘘の部分の信憑性が高まるり真実と化す。しかし、気が緩むと嘘の部分のボロが出るので、嘘を語り通すのであれば確りと頭を整理してから嘘を言え!という浮気の失敗談。
その昔、売れない画家が余りの空腹にキャンパスに食べ物の絵を書いて、空腹を紛らわしていたが、次第にエスカレートしてしまい、あまりに美味しそうに描けてしまった餅の絵を見て「これは醤油焼きにして食べたら美味しいだろうなぁ〜」と思い、空腹の余り錯乱状態いだった画家はそのままキャンパスに火を放った。もちろん絵に描いた餅なので火はみるみると燃え広がり、アトリエを全焼し、画家は全てを失ってしまったのである。
絵に書いた餅とは、「自分の才能に溺れると、全財産を失ってしまう事が有る」という意味
イド説 其の一
その男は超絶的な絵の才能を持っていたので、餅の絵を描いても「ヤウちゃん(仮名)、これは誰のお顔?」とお母さんに聞かれてしまう超実話があった。しかたがないので「餅の食べすぎに注意しよう」と、コメントを付けざるをえなかった。
己の才能の欠落は、あらゆる努力をもって克服せねばならないという意味である。
イド説 其の二
己の才能の欠落を笑うことで誤魔化した男が、仮名に他人の名前、おちゃめさんで使ったりしてみたら、そーいや絵描くんだったなこの人。物馬鹿話ばっか読んでるからすっかり忘れたわ。マテマテって年賀状貰ったじゃんをを削除キーがきかないぞあはははははは。なんだかすっかり人でなしな俺。
意味:己の現実から逃げると、ドロ沼が待っているという意味である。
specchio説
時は戦国の時代、ある国ではひどい干ばつ・飢饉に見舞われていた。農民の四分の一がその国では死亡したという言い伝えがあるのだが、城に程近い集落では、庄屋のヤウ家の次男(名前・家柄には諸説あり)が絵に餅を描き、みんなで眺めて飢えをしのいだ為にその集落から死者が出ることはなかった。その後、このアイデアは殿様に登用され、ヤウ家は末代まで繁栄したという。
意味:些細なアイデアが世の中を動かすこと。
ヤウジロウの兄説
一休さんの有名な話。
試験にコンパスを忘れてしまった新衛門さん。次の数学での円の作図問題が解けないのではと嘆く彼に、ご存知一休さんが
「ポークポークポークチーン!」
「心を落ちつければフリーハンドでもきれいな円は描けるものです。あの手塚治虫はフリハで何個も正円描けるのですから。いあいや難しく考える必要はありません。こうしましょう、新衛門さんの大好きな餅の絵を解答用紙に描けばよいのです。」
「ありがとう!一休さん!」
言われたとおりフリハできれいな丸を書き上げた新衛門さん。しかし安倍川餅が新衛門さんの好物だったため、円を隠さんばかに加えたきな粉を表現した点々のせいで、0点。「点で話にならない」と一休が落ちをつけておしまい…
よって「時代背景に無理ありすぎだよ!!」の意味とす。
産み猫説
日本人は一般にこれを諺の一種と解釈している様ですが、古代メソポタミアの古文書に精通している人であれば、これが恐るべき未来を予言した詩の題名である事は既に定説となっています。
絵に描いた を、正しく古代アラブ〜中央アジアの言語で発音するとeni quaida (エニ・カイーダ)であり、これは即ち、今日過激派テロ組織として有名になったアル・カイーダをさしている事は明白な事実なのです。
eni quaida には、アラブ世界周辺で起こる将来の戦いとその結末が描かれており、既に中東戦争と湾岸戦争、そして先の9/11テロの様相を、驚くべき正確さで予言している事実に付いて世界中の政治家が密かに注目しています。そして、この eni quaida には、現在進行中(2003年現在)のアメリカによるイラク攻撃の結末も既に予言されており、アメリカ国防総省では今まで手付かずになっていた eni quaida の最後の部分の翻訳作業が24時間態勢で進められていると言われているのです。ちなみにノストラダムスの予言も、当っている部分の大半が eni quaida のパクリであると言われています。
死んだ人間が生死を分ける場所、三途の川には、若くして死んだ子供魂が向こう岸に渡れずにいた。この子供たちが成仏する為には、三途の川原で石を5つ積まなくてはならない。
「一つ積んでは父の為、一つ積んでは母の為…」
と石を積んでいると、何処からか鬼が現れて折角積んだ石を皆崩すしてしまう。
このことわざは、「鬼が少し目を話している隙に、三途の川で少し溜まっていた洗濯物が洗えてしまう」という話であり、「今あるチャンスは自分が思っているほど長く続く」という意味である。しかし、あまりそのチャンスを過信しすぎると、確変は止まってしまい、換金のタイミングを見失い、結果大損しているという話でもあり、「引き際が肝心」という意味も持つ。
産み猫説
この諺の起源になったエピソードは、遥か神話の世界に遡る事が出来、日本に現存する資料の中には既にその記述は失われていますが、大英博物館所蔵の古代百済王朝に伝わる古文書の中には「倭国に伝わる伝説」として次のような記述があります。
むかし、宮崎県日南海岸周辺に「鬼の洗濯板」と呼ばれる岩場が有り、そこにはしばしば鬼が洗濯をしに現れると地元住民に恐れられ、誰も近づかない場所があった。しかし、ある一人暮しの男が溜り溜まった洗濯物を一挙に片付ける妙案が無いか思案するうちに「そうだ、鬼の洗濯板なら鬼の神通力で一挙に洗濯が出来るに違いない」と思い立ち、密かに鬼の洗濯板に赴いた。しかし現場に付いて見ると、そこは確かに洗濯板風の凹凸の続く岩場ではあったが、洗濯には全く向かない海水が打ち寄せる海岸。「なんでー、こんなんじゃー洗濯なんか出来っこねーや」早々に帰ろうとする男の背後で「デカルチャー、今日も大漁だったデスケスー」と、大きな声がしたかと思うと、不意に巨大な網が男に押し付けられた。なんと○ントラーディー人が鯨取りに使った網を洗濯板で洗い始めたのである。憐れ男は鬼の洗濯板で摩り下ろされてしまった。
このよう伝説の教訓としてこの諺の意味は、「横着して危険を冒すものではない」とか
「このネタ、マクロス見てない人には全然わかんないっすよ」
とかの意味だとされる。
ヤウジロウの兄説
鬼というと先ず思い浮かぶのが昔話「ももたろう」でしょう。「ももたろう」は主人公桃太郎が鬼ヶ島へ鬼退治にでかかる話ですが、その鬼ヶ島はなんと実在すのです。
香川県の高松市から北へ3キロほど瀬戸内海を北上したところに女木島という島があり、俗称で鬼ヶ島と呼ばれています。これは日本地図にも掲載されている名称です。お手元に地図帳があればお確かめいただけるかと思います。
さてこの鬼ヶ島こと女木島は周囲5キロほどの小島で、大きな川も無く、島民は飲料水をはじめ炊事洗濯などに必要な生活用水を海から入手せざるをえませんでした。しかし島周辺の海域にはオニオコゼやオニヒトデなど、島の名を知ってか知らずか大変に危険な生物が生息しているため、おちおち洗濯もできないのです。しかし一日に二度、潮の流れが変わってそういった生物が島の周辺に現れなくなる時間があり、島民はこぞってその時間帯に用事を済ますのだといいます。これが「鬼のいぬ間に洗濯」の語源だと言われているのです。無論この島の山間部にオニユリが自生しオニヤンマが飛びかっていることは言うまでもありません。だって鬼ヶ島だもの。
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