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ゆとり教育反対勢力の危険性と帝国主義の台頭

投稿者:産み猫氏


新しい学習指導要領に沿って始まったゆとり教育、知識偏重の旧体制を改め、暗記や反復的学習に充てていた時間を創造的活動に充てたり、子供達の社会参加を促す余暇の時間に振り向けようとする試みである。

しかし、早くもこの試みに人々は疑いの視線を投げかけ始めている。

1 「技術大国日本を支えてきたのは高い水準の教育であった筈」

2 「厳しい受験戦争の現実と乖離している」

3 「子供の世話を土曜日も見なくてはいけなくなる」

等の問題が指摘され、ゆとり教育は人々に今、最も問題視される政策の一つとなっている。確かにこれらの問題を放置したまま教育を続ければ、将来に対する大きな不安材料を抱える事と成り、ひいては子供達の将来をも危ぶませる事になろう。

現に巷では秩序の崩壊、失業、社会不安を起因とする不景気、多発、凶悪化する犯罪。等、教育とそれに関連する政策の強化の重要性を感じる数多の現象が起こっているのも動かしがたい事実である。

しかしである、現に進行している上記社会問題、遡ってゆとり教育反対派の主張する上記3つの問題点が、そもそも学校で処理する事自体が間違いであるか、過去の学校教育が蓄積してきた諸問題が今になって破局の形をもって表出したのであれば、ゆとり教育に反対する理由にはならない。

まず 1 「技術大国日本を支えてきた高い教育」これが人々に職を与え、ひいては好景気と社会秩序をもたらした。という考え。

しかし、どうであろうか?本当に高い技術は日本の学校教育の成果なのであろうか?明治維新より1970年代後半まで、日本は技術大国と呼ばれる事は無かった。何故なら日本は欧米先進国というお手本を追い続ける身であり、独自の技術というものは、あまり手元に無かったのである。

当時必要とされていたのは、欧米の先端技術を精密に解読し、開発者より少ない投資でそれを上回る製品を作る能力、即ち暗記と反復の繰り返しであったのである。

模倣製品には取りたてて想像力を必要としないし、新しい技術を開発する努力は、コスト面から見て有害ですらある。巨額の開発費用は欧米に負担させ、日本はその果実だけを摘み取ればよかったのである。

しかし1980年代に入ると、日本人の人件費は欧米並と成り、自然、購買力をつけた人々の商品に対する要求も高くなってくる、既に人々は2流品には見向きもしない。

欧米の技術開発を待ってはいられなくなってきた、高い人件費を賄い高度化する商品需要にこたえるため、新技術に手を出さざるを得ない。加えて1990年代になると日本製品の特許侵害が激しく非難された事もこの動きを後押しした。技術大国は、過去の教育と言うより、近年の社会事情によって生み出されたのである。

このような社会情勢の変化により、もはや暗記と反復による模倣製品で、人々に職を提供する事は叶わない。これからは創造性が産業の原動力となろう。

学校で教えられるのは、所詮基礎知識だけなのだから、専門知識の習得はゆとりによって出来た時間を、各自で任意に充てる方がよくなる。何に関心をもち、何を習得するかの選択は個人にも与えられて然るべきだ。

そして 2 「厳しい受験戦争の現実と乖離している」という主張もいかがなものであろう、そもそもいくら厳しい競争をしても現実に勝ちを収め、高所得を得られるのは現在では全体の3割程度にしかならない。

かつての様に、誰でもある程度の学業を修め、同じ会社に勤め続ければ高収入にありつけた時代は、残念ながら日本では過去のものとなった。

世界市場で何時も負けてくれる筈だった欧米が、海外生産による低コストと、知的財産保護という強力なカードを出して反撃に転じ、発展途上国の急激な先進国化によって日本の市場支配が及ばなくなった時点で、日本の優位性は失われ、年功序列と学歴偏重の時代は終わったのである。にも拘わらず、未だに過去の方法論を持って新しい社会情勢に当ろうとするのは、老将軍達が時代遅れの戦略、戦術を以って大敗を喫した大東亜戦争の過ちを繰り返すが如くの愚考といわざるを得ない。

そもそも受験戦争に人々を駆り立てる真の動機というものに人々はそろそろ気付くべきではなかろうか。だいたい子供自身は受験などには、はなから無関心である。子供は自分自身の関心の赴くままに物事を覚え、習得していくものなのではなかろうか。

その様に様様な個性を身につけた人々の中から適性のある人材を選び出すのが入学試験であった筈である。

しかし、今日受験といえば、「小さな脳みそに要りもしない知識を限界まで詰め込んだ珍種動物の品評会」に成り下がっている嫌いがある。

何がそうさせるのか、その犯人は今でもテレビの前に横になっている筈なので、今この論文を読むのをちょっと中止して今すぐ激しく糾弾することをお勧めする。犯人は言うまでも無く母親である。自分は赤点ギリギリでどうにか高校を卒業したに過ぎないにも拘わらず、自分の子には「母さんは何時でも1番だったのよ!でもあんな甲斐性なし亭主に引っ掛かったんだから、あんたは勉強して高給取にならないと!」

正に人民を牛馬の如くこき使い、自らは貪欲に利益を貪るブルジョアジーの姿そのものである。だいたい自分の子供なんだから、どの程度の知能の持ち主なのかは既に知れている。それに無理をして散々詰め込むものだから変な事になってくる。

学歴の割にさっぱり仕事が出来ない人物を大量に輩出する事となった。既にこのような育成環境で育った人物は2〜3世代になるので詰込みによる弊害に気付く者もあまりいないのが現実。今やバブル時代の栄光を夢見るお茶の間ブルジョアジー達による静かな帝国主義の蔓延と、国家崩壊の序曲が流れ始めている。

そして 3 「子供の世話を土曜日うんぬん・・・」に至っては労せずして人民から搾取する悪徳資本家の匂いがふんぷんとしている!

だいたい本来は小学生にもなれば、大人が始終監視していなくとも、一日ぐらいどうにでも過ごせるものだ。かつては子供は子供どうし、年齢性別ゴチャゴチャでたむろして遊んだものである。それがなぜ崩壊してしまったのかを考える必要がある。

かぎっ子 と言う言葉が聞かれた1970年代、両親とも昼間は働きに出て家に居るのは鍵を持たされた子供だけ。

しかし待って欲しい。「祖父母は?」と一昔前なら尋ねられるであろう、しかし現在において、その問いは愚問と言わざるを得ない。母親に追い出されたのである。

追い出された、と言うのはいささか乱暴過ぎる。生活設計を組む上で当初から除外されたと言った方が正しい。いわゆるジジ抜きババ抜きである。

しかしそれだけでは子供社会の崩壊を説明できない。子供社会崩壊の原因を探るには管理教育の出現にまで言及せねばなるまい。

子供達の社会を直接的にまとめていた秩序は年長の子供の判断である。そしてそれの後ろ盾となっていたのは周囲に居る近所の大人達である。子供達は手に余る問題や、判断に迷う時には大人達に相談したし、子供が独自の判断でいけない事をしたら大人達に咎められたものだ。

しかし、今日では近所の大人が子供をしかろう物なら、母親が乗りだし、すぐに抗議を始める。子供としては母親の判断が正しいのか叱った人が正しいのか判断がつかなくなるばかりでなく、悪くすればその場の状況を全く知らない母親が主導権を握り、問題自体をあやふやにし兼ねない。

こうして後ろ盾を失った子供社会は根底から崩壊し、以後その管理は学校に委ねられる事になる。困ったのは学校である、学業を修めさせるばかりでなく、ジジ抜きババ抜きの家庭に代わって子供の躾をしなければいけなくなっったばかりか、ガキ大将と近所のオジさんの役まで仰せ付かってしまったのである。

当然躾も秩序維持も中途半端なものになる。応急処置として学校が出来た事と言えば、基本的人権にまで踏み込んだ異常に厳しい校則と、クラブ活動などにかこつけて子供を常に監視下に置く事ぐらいのものであった。

その上更に追い討ちをかけるような塾通い。これでは子供達は監視と管理のもと、過酷なノルマを課された囚人のような有様になってしまう事は疑い無しである。

今こそお茶の間から始まる一連の帝国主義思想に対し異議を唱える時である!管理とノルマの生活に終止符を!「立て、ジオンの国民よ、今こそ無道なる連邦の支配を跳ね除け真の独立を勝ち取るのだ!」

「ジーク、ジオン!ジーク、ジオン!ジークジオン!・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 あれ?教育問題どうしたっけか?

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