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躾法案

投稿者:ヤウジロウ氏


最近のお子様は躾(しつけ)がなっていないと感じた事はないだろうか。スーパー等の他人と共有する場で走り回る子供。それを注意するのは親の務めである。他人の迷惑になる事をした時、直ぐに注意しなくては意味がないのだ。

最近気になり始めたのは、子供が悪戯をしても親が止めない、また、注意してもこの行動を止めないというもので、昔ならば悪戯をした瞬間、右頬が真っ赤で後悔の塩水が両目からボロボロと出ていたものではなかっただろうか。が、最近のお子様は過保護に育てられているのか、右頬を腫らすことなく、悠々と悪さをしている。

先日有った話をするならば、レジを打っていると台の上に土足でよじ登り、レジのキーを触りだしたお子様がいた。それは流石に横に居た親も止めたが、その注意の仕方が

「止めなさい。迷惑になるでしょう」

だけだった。それは如何なものだろうか。他のお子様も台の上に乗り出す子は皿に居るものだが、このガキは商売道具のレジにをガチャガチャ触りだしたのだ。下手をすれば、その客が買った商品を買ってない事にすることもできる。本来ならば台に登った瞬間に台から叩き落すべきであるが、このガキの場合、レジに触れた瞬間後頭部を掴み、そのままレジの角で額をかち割るくらいの事をするべきなのである。

このように、昔の自分がそうで有ったように、アクションの後に直ぐ怒るという行動を繰返せば、次第にお子様は、「台の上に登るのはいけない事で、登ったら怒られる」という風に記憶認識をするのではないだろうか。つまり、これが人生における躾という名の社会学習なのである。

しかし、最近の親はその親自体躾がなっていない為、お子様に対して上手な躾ができないでいる。したがって、台の上に土足でよじ登っても"何も言わない"、注意しても"止めなさい"の一言だけなのである。また、その様な光景を目撃しても、周りの大人が注意できない社会環境も悪い。昔は赤の他人のオジサンやオバサンが注意してくれたように、悪事は悪事と教えてあげられる大人が少なくなっているのだ。

とは言え、今の社会現象と呼ぶには悲しすぎるが、周りの大人が台の上のお子様を注意し様ものならば、親が飛んできて、「私の子供に何をするんですか!?」と怒鳴り散らすではないか。 "注意してくれて有難うございます"とお礼を言うならいざ知らず、逆に文句をいわれる筋合いはない。

そう、コレが今若人達の間で広まっている"逆ギレ"という奴である。

そこで、口論になろう物ならば、カッとなってナイフで刺されるかも知れない恐ろしい時代なのだ。「スーパーで子供を注意され、ついカッとなって刺した」という何とも愚かしい殺傷動機が、今の世の中と通ってしまうのだから恐ろしい。

そんな腐った社会だからこそ、周りの大人たちもビクビクしながら、台の上で飛び回るお子様を注意もせずに無視を決め込みスーパーから出て行くのだ。確かにそうだろう。ヘタに注意して刺されるくらいならば、黙認した方がマシと言うものだ。まさに"触らぬ神に祟りなし"とはこのことである。

が、"大人たちもそんなにビクビクしてどうするか"という事である。逆にその親を注意できないでどうする。そうしなければ、善悪の判断もできないお子様が増え、後の少年犯罪が急増することは目に見えているでないか。昨今の法でも裁けない少年による凶悪犯罪の根源は、ここにあると考えるのである。例え国会で少年法の年齢を下げたとしても、事後では遅いのだ。年齢を下げた所で犯罪が少なくなる訳ではない。つまり、未然に防ぐ策として、躾法案を作るべきなのである。

この法案は、各市町村に最低100人単位で「上手に躾のできる大人の見本」となる人物を任命するのである。これに任命された人は、否が応でも目敏いお子様や、体は大人でも頭は子供のケツの青い親を注意できるのである。このお手本となる人物に反論、または暴行を起こした場合、従来の刑罰よりも遥かに重い罪にとわれる。また、このお手本のなる大人達が月に一度行っている講習会に、参加の義務を命じる権限を持つのだ。もちろんこの講習会に不参加だった場合は10万円以下の罰金を架せられる。つまり、このお手本となる人から注意を受けた人は、注意人物とされ、世間の目が厳しくなっていくのである。

こうする事で、腐敗した社会でも堂々お子様を注意でき、また、その親も指導できるのである。もちろん月に一回の講習会は市町村から給金が支給される為、お手本となる大人へのメリットも有る。しかし、市町村から任命を受けた段階で拒否はできず、最低1年は活動をしなくてはならない条件付だ。

この様な法案が無ければ注意できない日本社会も腐りきっているが、その様な日本社会を作り出した大人も腐っている。走り回り迷惑を掛けるお子様を見たら、その髪の毛を鷲掴みに持ち上げ、体をもって教え込まなくてはならないと思え。また、その様な子供を見て、"虐待だ"と訴える親はしばらく躾強制所に入ってしまえばいい。甘やかすのと躾は違うと言うのが理解できるまで、みっちりと、絞られればいいのだ。

その様に、目の当りで強烈な躾をすれば、見ている子供たちもそれをしなくなる。つまり、悪さをした子供が生け贄的躾をさせられる事で、それを見ていた子供たちも、共に教育できると言うわけだ。

もしこの法案が成立すれば、その殆どの親が強制所に通わされ、指導を受ける事であろう。その様にならない為にも、今から各自の自己責任についてもう一度再確認をし、我が子の行動に責任を持つのである。"他人から注意を受けたら恥ずかしくて死にたい"くらいの気持ちを持て。でなければ、"もうこの迷惑を掛けたお店に来れない"くらいの羞恥心を持て。

最後に、この法案が成立しなくても、注意できる大人になれ。

というか、注意を受けるような野放し躾をするな。

聞き分けの悪い子には右ストレートくらいが丁度いい。

それを虐待と思う人間は自分の過去を思い出せばいい。

そもそも虐待とは一報的な暴力行為のことで、殴られる原因がある場合、殴る必要性がある。

昔はそれを"愛のムチ"と呼んだものだ。

故に、"愛のムチ"と"虐待"を履違える大人は、しばらく本当の虐待を自分で受けてみればいい。

それでもそれは虐待だと思う奴は、警察に連絡すればいい。


躾とは"身に美しい"と書く。つまり、身に付く事で人間性を美しく見せることのできる行為なのである。躾はその後の人生を左右する、社会勉強の一つである事を忘れてはならない。

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