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桃太郎

投稿者:ヤウジロウ氏


皆さんは、昔話「桃太郎」をご存知のことと思う。しかしこの桃太郎、昔と今とでは若干ストリーの結末に変化がある事をご存知だろうか。それ故に、本来得なければならない教訓が得られていないのだ。

まず、皆さんがよくご存知の桃太郎とは、話始めが「お爺さんは山に芝刈りへ、お婆さんは川に洗濯へ〜」だろう。そして川で洗濯をしていたお婆さんが、上流からドンブラコと流れる桃を発見し、持ち帰った所、中から元気な男の子が生まれ「桃太郎」と名付けられた。というストーリーの筈だ。

そしてスクスクと元気に育った桃太郎は、街で悪さをする鬼を退治すべく、旅に出る。途中、「サル・キジ・イヌ」をお供に付け鬼が島へ向かう。そして鬼が島に到着した桃太郎達は、見事鬼たちを倒し、盗んだ金銀財宝を持って、お爺さんとお婆さんが待つ家へ向かう。

さて、問題はここからである。その後の桃太郎の行動が、昔と今とでは随分違うのだ。

私が教わった桃太郎の最後は「その財宝でお爺さんとお婆さん達と仲良く暮しました」と、終わる。しかし、現在の桃太郎は「その財宝を街の皆に分け与え、平和に暮らしました」に変わっている。

この結末から得られる教訓とは何か。前者の終わり方だと、鬼が盗んだ財宝を横取した様に思える。それに比べ後者は、財宝を分け与える事で貧困さは無くなり、皆が平和に暮らした様に思える。が、それは全くの間違いなのである。

確かに、鬼から盗んだ財宝を桃太郎達が独り占めするのは間違っている様に思えるかも知れないが、この桃太郎という話の本来の教えはそうでは無い。そもそも昔話は昔の農民達の語りである。心の声である。それは「鬼は代官、桃太郎は農民」という例え話なのである。

つまり、横暴な年貢で貧しい農民達から米を吸い上げ生活を苦しめる代官を、勇気を持って立ち上がった農民が見事打ち負かし、最後にその地位(財宝)を手に入れる。つまり、一揆である。

ということは、桃太郎は次期代官となる。そこから考えられる結末はどうだろう。貧しい農民の代表として立ち上がった桃太郎が、悪性政治を行うだろうか。そんな事は無い。代官を倒すだけの力を持っている事は事実だ。そして、桃太郎は3人の家来をつけている。これは信頼の証である。つまり、桃太郎という人材は、力と信頼性を兼ね備えた人間だったのだ。勿論、この家来も信頼できる人物であることは疑いない。これは、「サル・キジ・イヌ」から分かる。

この配列は干支の「申・鶏・戌」である。では、何故「申・鶏・戌」なのであろう。それは、干支を東西南北に配置した時、鬼門(東南)とは真逆の位置に配置される干支がこの「申・鶏・戌」だからである。つまり、鬼門とは反対の者、つまり正義の使者と表現された結果が「サル・キジ・イヌ」なのである。

これを踏まえたうえで、現在の桃太郎の話を当てはめてみると、見事悪代官を倒した桃太郎は、その地位を貧しい者達に分け与えた事になる。これはこれで正しい行いの様に見えるが、それは大きな間違い。結果として、桃太郎は平等性を重視した為に代官の座についたものの、力と信頼があっても肝心の財力が無かった為に、何も出来ないことであろう。そこから更なる信頼が生まれる訳も無く、結果、桃太郎政治は廃れていくのである。

また、貧しい人間に無駄にお金を配当したばかりに、今まで汗水垂らして働いていた者は、目の前に投げ込まれたお金に目が眩み、仕事をしなくなる。これは例えるならば、拾った宝クジが当選していて、幸運な事に500万が手に入ってしまった様なもの。

人間とは欲の塊である。500万もあれば、しばらく遊んで暮らせると楽を思い、働かなくなるのだ。するとどうだろう。この現象が街全体で起きるのだ。経済は完全にストップ、その間畑は荒れ、作物は腐り、伝統は廃れるだろう。そうして500万という金が尽きた時更なる悲劇が起こる。今まで楽をし、贅を尽してしまった人間がまた過酷な労働をするだろうか。全自動洗濯機の楽さを覚えてしまった人間が、真冬の凍て付く川の水に手を切らせなら洗濯板でゴシゴシ洗うだろうか。そんな面倒な事はしない。人間とはそういう生き物である。でもこのままでは生活していけない。とすれば、盗むしかないのだ。楽して金を手に入れる。そう、戦争の始まりである。

農民達は鎌や鍬を片手に攻め入り、街の邸を荒らすだろう。するとまず始めに狙われるのは桃太郎の家である。なぜなら彼は信頼と財力を失っていても、代官という地位は失っていない筈だからである。でなければこの街を治める頭がいない事になってしまう。流石の桃太郎もそこまで馬鹿ではあるまい。

そうして、街一番の邸である桃太郎の家に農民達が押し寄せ、女中たちは無骨な男どもに手篭めにされ、蔵の荷は全て奪われ、食糧の貯蓄も取り上げられ、最後に邸に火を放たれて終わるのである。

自分が巻いた種とはいえ、現在の桃太郎の行く末はこれである。

こんな話のどこが「めでたし、めでたし」なのであろうか。めでたくも何とも無いではないか。それに比べて、昔のままの桃太郎でいけば権力、財力、信頼を手に入れた農民桃太郎は、それはそれは立派な政治を行い、街を護った筈である。しかも、昔の桃太郎は鬼の角を切っている。つまり、悪代官を殺しているのだ。これは、残忍さという力の象徴と共に、農民達の積年の恨みを果たした現われでもある。

しかし、現在の桃太郎は角も切らず、鬼が謝れば即許すのである。そんな事をすれば、悪代官は精通していた他の街へと逃げ帰り、そこで新たに力を蓄え、必ず仕返しに来るであろう。

また、最悪なエンディングとして、命乞いをする代官に寛大な心を見せ、その命を助けた時、スキを見せた桃太郎の背後からバッサリ斬りつける悪代官。背後から切られた桃太郎は振り返り際に代官を顔見て悟るのだ。「嗚呼、やっぱり殺しておけば良かったな」と。

結論を言わせて頂けるならば、これからの日本を背負う子供達に、その真髄を曲げ間違った桃太郎を語ったが為に、背後から真っ二つになるような人生を、または信頼も何もかも失い友人知人親戚家族から殴り込まれるような人生を送ってしまって良いのかという事である。

あの時、「本当の桃太郎」を知っていれば、こんな人生の幕締めはしなくて済んだのに、と思っても既に遅いのである。

この先、過疎化が進み、若者一人にかかる日本の重圧は重いだろう。そんな戦火を生き抜く為には、今のような甘っちょろい桃太郎では駄目なのである。もっと内容のある桃太郎でなければ駄目なのである。

そして、是非とも真なる桃太郎となるべく、情に厚く信頼性があり富と名誉を手に入れ、周りを統治する能力を兼ね備えた、素晴らしい日本人になって頂きたいものだ。

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