投稿者:ヤウジロウ氏
この文が読めるという事は、日本語を多少は理解できていることと思う。世界広といえど、この日本ほど言葉のバラエティーに富んだ国は無いだろう。
というのも、日本語は難しい。外国人が日本語を学んだ時、一番始めに戸惑うのが「数の数え方」だそうだ。それもそのはず、物の数を数えるのに最後に「ほん」「ちょう」だと色々有り過ぎる。例えば小動物を数える時は一匹・二匹と「匹」が付くが、大型になると一頭・二頭と数え方が「頭」に変わる。また「匹」の場合、「いっぴき」「にひき」と読み方も異なってくるのだ。決して「いっぴき」を「いちひき」とは発音しない。昔はそう発音していたのかもしれないが、長年の間に段々と詰まってゆき「いっぴき」という発音になったのだろう。
数を数える上で、同じ小動物でも「匹」と数えない動物が居る。それは「ウサギ」である。ウサギの場合、数え方が「羽」なのである。「羽」で数えるのは鳥の場合である。その辺りの区別が中々外国人には難しい様だ。最近若者日本人でも数えられるかどうか疑問な所である。そもそもウサギが何故「羽」で数えられるのか、それはウサギという名前に由来する。
ウサギといえば元来シロウサギが基本である。昔の人はその白さを見て鳥の「サギ」と同じようだと思ったらしい。また、ウサギ跳びと名が付くように、ピョンピョンと羽が有る様に跳ねるその仕草は、まるで鳥のように飛ぼうとしている様に見えたのだろう。その為、「羽が有る様に跳ねるサギの様に白い者」という意味合いで「羽サギ」「ウサギ」となったのだ。(俗説)そう考えれば、何故ウサギが「羽」で数えらるのか合点が行くではないか。この様に、今何気なく使っている日本語には、そのものに歴史があり、実に奥の深い物なのだ。
日本語は世界外国語の中で単語数が多い部類に入っている。それを証明するには、「言語相対性理論」というものを知るのが手っ取り早い。「言語相対性理論とは、言葉が認知に影響する事を始めて体系的に理論化したものである。」と、この文章で理解するのは難しいので、よく取り上げられる例を出すとしよう。
日本では虹の色は七色である。七色といのは幼稚園児でも知っている事である。この七色といのは「赤・青・黄・緑・紫・藍・橙」である。そもそも色とは390(紫)から760(赤)ミクロンまでの連動的に変化する電磁波に過ぎない。それを我々は赤だの青だのとカテゴリー分けをしている訳である。
しかし、アメリカではこの虹の色が「赤・青・黄・緑・紫・橙」の6色になるのである。先ほども述べたように、色は変動する電磁波であるから、場所を変えても見え方は変わらないの筈である。では、日本人が見ている「藍」は何処へ行ってしまったのか。実はアメリカには「藍」を表現する単語が存在しない。文献上では7色にされているが、民衆的には6色なのだ。日本のように7色で色をカテゴリー分けできる国は、他にフランスくらいであろうか。少ない所では、 3色、2色という国も有るそうだ。
この場合色であったが、例えば自然界で空を飛ぶのも「鳥」「昆虫」「雪」なども、ある所では一つの単語で表現されてしまう。つまり、鳥、昆虫、雪などの区別は無く、全て「飛ぶもの」として扱われるのだ。そう考えると、数多くの物に名前が付けられ、それを日常で使いこなす我々日本人は凄いと思わないだろうか。また一部の職業者くらいしか使わないであろうが、我々が言う「赤」という色は更に分類され、朱色・紅色・東雲(しののめ)色などに細かく分ける事ができるのだ。また、色の図鑑などを見ると、今まで青と思っていた色は実は青で無かったりする。この様に、日本語とは語学界においてすこぶる発展した高度な技術といえよう。
しかし、昨今の日本語は廃れたものだ。若者言葉と称され、間違った日本語が充満している。特に最近耳につくのが、「形容詞連用形語尾「く」の過剰適用」である。
簡単な例を挙げるならば、若者組みが食事をしてる風景を想像してもらいたい。相手が皿の上の野菜を見て、
A 「これ残すの?」と聞くと
B 「これって好きく無いんだよね」と返した。
さて、この会話。今となっては一見普通に聞き流してしまうが、イエローカードである。
野菜を残した若者Bの発現に「好きく無い」というのが有った。この「好きく」の「く」が悪いのである。但しのは「好きでは無い」である。この場合話し言葉なので、「無いんだよね」で通じるが、これも正しいに日本語とは呼べない。この他にも「綺麗く無い」などの「く」の過剰適用が多々見られるのだ。
この様に間違った日本が広がっているのはメディアがその傾向にあるからである。もちろん学校という学びの場で正しい日本語を教える事は出来るが、授業内容改正に伴い、その希望は薄い。それに輪を掛けるかのように、無知な可愛さだけのアイドル達がTVに出演し、間違った言葉を吐く為、それに視聴者は汚染され、間違った日本語は広がっていくのだ。
この由々しき事態を脱出する為に本を読め、と大人たちは言う。が、しかし、これら常用単語であれば、 TVの時代劇をみれば簡単に知る事ができるのではないだろうか。確かに読書も大切であるが、読書をする若者が少ない昨今において、読書をしろといのは難しい話しである。ならば、「TVっ子」なる言葉も出来るくらいの時代なのだ、それを逆手に取り、「時代劇を見ろ」と言った方が良いのではないか。時代劇には素晴らしい言葉が沢山ある。外来語などは禁句な為、どうしても正しい日本語を発音しなければならないのだ。
これからの日本語を救うのは「時代劇」である。このまま誤った日本語が広まれば、それは日本語ではなく「日本誤」として呼ばれ続ける事であろう。
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